2005年07月27日

定頼くんと兼房くん

寛仁2(1018)年 4月1日 甲子

大学時代、『御堂関白記全釈』から拾った定頼ネタ。
一時期掲示板でも話題に上りましたが、面白いのでコチラでも(笑)。
『小右記』にもこの事件について記載があるようですが、未読の為それはまたの機会に。

1日:妍子の直盧で群飲中、定頼が兼房(兼隆息・道兼孫)に面罵される。
兼房、まず座前の菓子を足蹴にする。
定頼が座を立ったところ、兼房に冠を取られそうになったので宿所に逃げ込む。
兼房は宿所に石を投げた後、殿上に昇って定頼を罵辱した。
2日:道長、兼隆を召して兼房の参内を停めさせる。
21日:道長、兼房を召して勘当を優免。

藤原兼房、道兼さんの孫ということは定頼とは従兄弟関係に当たると思われます。
歌人としても有名なようですが、この騒動の原因はどちらにあるんでしょうね?
失言の多い公任の息子ですから、定頼が何か言ったのか。
それとも兼房が酒乱だったのか(笑)。
この辺りの背景について調べたことがないので、よく分からないのですが
逃げ回っている定頼が面白いです(実資さんには情けないと言われたようですが)。
貴族の子弟同士のつかみ合いの喧嘩、それもまた見てみたいものです。
ニックネーム 僻目 at 00:59| Comment(6) | TrackBack(0) | 公任

2005年07月02日

姓名判断

藤原 公任
 ○● ●●
 1910  4 6
 総運39◎ 強い運気を持ち、困難を乗り越えて成功をつかむ。女性には強すぎる運勢。
 人運14△ 不平不満が過ぎて上に嫌われ損を。穏やかで社交的だが気が強い。 
 外運25○ 自我が強く衝突しやすい。協調性を大事に。新たな環境を求める傾向。
 伏運24◎ 他人の援助を受け、よい成長をします。
 地運10× 勝負、陰性、波乱運。
 天運29○ 力強く発展する家柄。
 陰陽 □ 悪くはない配列です。

>>「不平不満が過ぎて」「穏やかで社交的だが気が強い」の辺りは本当にそんな感じ!
      私のイメージそのままの公任さんです(笑)。
      藤原氏が「力強く発展する家柄」というのは嬉しいかも。
      それにしても総運:「女性には強すぎる運勢」
      ・・・女性じゃなくて良かったね(笑)。

ふじわら きんとう の音運判断
 
   きんとう
  ○○○(調和名)
 主音き 落ち着きなく神経質なとこも。才能と行動力にはすぐれています。
 次音ん 周りを和ませる。
 助音と 秘めた闘志を持つ。しっかり者ゆえに迷いも多い。
 頭音UI 頑固なところがありますが、人の意見を聞く道を持ち成長していく。
 秘数 5 気ままで奔放。才能と行動力はあるが飽きっぽい。

>>・・・神経質に笑い。「秘めた闘志を持つ」というのはなんとなくそんなイメージ。
 頑固・・・確かに。しっかり者ゆえに迷いも多い・・・そうなのですか!?(笑)
 最後の飽きっぽい、は女の人に対してなのか何に対してなのでしょう(気になる)。 
ニックネーム 僻目 at 02:14| Comment(0) | TrackBack(2) | 公任

和歌ネタ

『袋草紙』上

範永朝臣が若い時分、遍照寺で月を詠んだ歌

すむ人もなき山里の秋の夜は 月の光もさびしかりけり 
(住む人も居ない山里の秋の夜は、月の光も寂しいものだなあ)
<<『後拾遺集』秋・上 広沢の月を見て詠める>>

時に四条大納言(公任)は出家して北山の長谷に隠棲していたが、
息子の定頼卿が訪ねて行ってこの和歌を見せた。
すると四条大納言はこの歌に深く感嘆して、この歌が書かれた紙の端に
「範永とは誰人ぞや。和歌その躰を得たり」
と書いた。

範永はこの話を聞いて甚く感激し、定頼卿の邸を訪れると
和歌の書かれた紙を受け取り、錦の袋に納めて重宝としたということだ。
この歌は範永が蔵人であったときに月夜に定頼が参内し、その後同車して
遍照寺に向かい、終夜遊覧した折に詠んだものである。

■藤原範永(生没年未詳)■尾張守中清男。
正四位下、蔵人、尾張守、但馬守、阿波守、摂津守、伯耆守などを歴任。
延久2(1070)年頃、出家。後冷泉朝歌壇で活躍。
和歌六人党の一人で、歌集に『範永朝臣集』がある。勅撰集に30首入集。


範永のこの歌は、寛仁2年、または3年8月の歌なので公任の出家とは合わない。
『定頼集』によると遍照寺に同行したのは、範永のほかに資業が居る。
この歌を詠むに至った経緯は『定頼集』の詞書に詳しい。

・・・公任が珍しく人の歌を誉めております。
おそらく、訳をつける必要のないぐらい簡潔な和歌が気に入ったのでしょう。
技巧に走らず、あるがままを詠むという。
また範永くんが、公任に誉めて貰った歌をお守り袋に入れて大切にしたという辺り
可愛いですね!
公任が走り書きをした紙を定頼から受け取ったんでしょうか。
それはそれで羨ましいです(笑)。
ニックネーム 僻目 at 01:49| Comment(0) | TrackBack(1) | 公任

藤原定頼行状改め方 

藤原定頼(995-1045)

私の大好きな藤原公任の嫡男。
色んな意味で興味津々な定頼くんですが、
彼の行動にはやや難ありな記録が見られるようなので簡単に書き出し。

@鹿を射る

内蔵寮使として奈良へ行った定頼は、鹿を射た武者に御衣を脱いで与えた。
※鹿を見ると「吉徴」としていたご時世にあるまじき行為
<『小右記』寛仁3年2/10条>

A史上初、蔵人の蟄居


定頼が蔵人頭だった頃、源顕定を嘲弄して蟄居を命じられた。
※蔵人頭が蟄居させられるなどということは先例にないこと

B「緩怠」「懈怠」「無頼」「不廉」

『小右記』(藤原実資日記)内で、定頼を評したもの
※摂政藤原頼通には「定頼才能はなはだ賢し、然れども緩怠極まり無し」と評されている(長和5年4/8条)

ほかに有名な話としては、小式部内侍の「天橋立」の歌のエピソードがありますが
それは説話色が強いのでやめておきます(笑)。


では逆に、評価を受けているもの。

@22歳の定頼、道長の上表を書く

長和5年10/2 道長の上表(辞表)の清書をして「甚だ以って美なり」と評された

A『双観無量寿経』書写

万寿2年3/20 上東門院彰子の経供養にて。

B定頼、素早い清書

万寿2年11/29 国司の延任申請の定めで、左大弁だった定頼は
国ごとの文書を書いて読み上げているうちに深更に及んだが、
軽快に筆を走らせてたちまち清書を終えた。
満座の人々はこれを見て感嘆した(『小右記』)。

C長元9年 大甞会屏風り色紙形の筆者に選ばれる

D長久3年 内裏の殿舎・門額を書いて正2位に叙せられる


百人一首では「朝ぼらけ〜」の歌が有名。
色々と素行に問題ありの定頼くんですが、矢張りやるべきところではやってる当たり
腐っても四条中納言ですね(笑)。
誰かに物を投げられたりだとか、名うてのプレイボーイだったとか、
まだまだエピソードはありますが、それについては別途また。

『定頼集全釈』は手元に置きたいと思う僻目でした。
ニックネーム 僻目 at 01:40| Comment(2) | TrackBack(0) | 公任

2003年11月05日

曲水の宴(公任徒然既出)

城南宮で「曲水の宴」のVTRを観て、ちょっと妄想。
公任とか定頼は得意そう(というか出張りたがり)かな、と
少々贔屓目に考えてしまったり(笑)。

「おや、公任殿はもう詠んで仕舞われたのですか?」
「ええまあ、これぐいしかとりえが無いもので・・・」
(↑明らかに嫌味なほどの謙遜)
そして悠々と流れてきた盃台を取り上げて酒を飲む公任(笑)

行成さんや実資さんは、少々苦手なイメージ
筆を持つ姿は一番似合う行成さんだと思われます。
きっと女房たちもウットリ。
しかしご本人の心中は必死(笑)。
盃台が途中で引っかかったのを見てラッキーと思ったり
していたら、それはそれでまた微笑ましいです〜vv

負けん気の斉信さんは、公任や行成さんとは少し席を
離れたところにした方がいいですね(笑)。
間違っても向かい合わせなんかにしてはいけません。
互いに掴みかからんばかりに、流水を飛び越えてしまいそうです(笑)。


・・・などと妄想爆裂。
道長「今度の寅の日に曲水の歌合せを行う」
行成「では私は皆さんの作られる歌の清書を・・・」(逃げ)
実資「では儂は判者をいたそう」(逃げ)
公任「即時に二首詠みあげましたら、盃の数も増やして貰えましょうや」
斉信「自信満々なのはよいが、盃が罰杯にならぬよう用心することだな」

・・・なんてガキの会話(笑)。
いやはや、平安の御世をしのばせる催しモノ、もっと
沢山やって欲しいですね!
大覚寺、竜頭船はせめて昼間にやって欲しいなあ
(日帰り組に夕方からの開催は厳しい)。
ニックネーム 僻目 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 四納言

2003年10月21日

長和元年正月の余興(公任徒然既出)

大学の講義の空き時間、いつものように図書館で
昼寝を決め込もうとして『御堂関白記全釈』を持ち出す。
ちょうど枕の高さにイイのでよく使うのですが(笑)
チラっとめくってみたら「侍従中納言」(行成さん)の字が目に
飛び込んで来たのでその記事を読んでみました。

長和元年正月。
二日。庚午。参中宮、諸卿着座、数献之後和哥事、
侍従中納言献盃次事也、源宰相執筆、人々酩酊、
雨下、深雨也。


枇杷殿で行われた中宮(彰子)大饗の席でのこと。
この時、侍従中納言行成さん(41)は盃を勧める役を
勤めていたが急に興を覚え詩歌を提案したということか。

と、注釈にはあるのですが。
『大鏡』の伊尹伝でも和歌は不得意という行成さん。
ならば「侍従中納言に」、という意味で取ると
誰かが行成さんをからかったことがきかっけになった
とも取れる―とも解説されていました。
執筆したのは源宰相頼定さん(36)

この記事を読んで勝手に妄想してしまったのが、
もしやこの「行成さんをからかった誰か」は公任か斉信さん?
ということで。
一つお話が出来そうですね(笑)。

「どうかな侍従殿。今日の善き日に一句詠んでは貰えぬか」
「行成をからかうのは止せ公任。お前、酔っているな?」
「それは行成殿が幾度となく盃を勧めて来るから仕方なく」
「まあ、歌を詠むのはいい提案だ。頼定殿、すまんが書き取ってくれ。
そうでもしないと行成が和歌を詠まぬのでな」
「はははは」

・・・みたいな酔っ払いオヤジな公任(47)と斉信さん(46)
想像してしまいました(笑)。

この年の4月には、公任の娘が教通と結婚します。
そして同日に妍子内裏入、女成(せい)子立后。
なかなかに忙しい年の始まりに、酔いつぶれる公卿の
記事っていうのまた微笑ましかったです。
ニックネーム 僻目 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 四納言

2003年10月04日

公任と斉信(公任徒然既出)

『江談抄』巻五(五十九)に、

公任と斉信は詩敵為る事」というお話があります。
伊周さんがよく仰ることには、
「公任と斉信は詩敵と云うのが妥当だとろうね」と。
相撲に喩えるならば、公任は善く擲つけれども
斉信を打ち負かすことは出来ない、とのこと。

三才の誉れを持つ公任さん。
一つ年下で、公任の上位にあった斉信さん。

2人の三才を比べると、

漢詩:斉信>公任
和歌:公任>斉信

だと思うのですが・・・。
さて管弦は如何なものでしょう?(笑)
公任が管弦に秀でていたという直接的な逸話はないので
いまいち決定打に欠けます。
斉信さんについての知識は私はほとんど無いので(汗)
皆さんの考え、是非お聞かせ下さい。

朗詠は、十中八九斉信さんの方が上ですけどね(笑)。
ニックネーム 僻目 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 四納言

2003年10月02日

江談抄(公任徒然既出)

図書館で『江談抄』の中の公任を調べていたら
何故か斉信さんとセットになった話が多い。
斉信さんに諭されて納得している公任や(笑)
矢張り斉信さんには敵わないよ?という話や
実は斉信さんは伊周さんや公任を目標にしている―
などと云った面白いものが沢山!

詳しくは「公任ヲ探セ!」辺りで紹介したいと思いますが、一つだけここで紹介。

「江談抄」巻四

三五夜中の新月の色 二千里の外の故人の心 白

新月は、人おもへらく微月(三日月)の初めて生ずるなりと。
斉信・公任、相論せられ、この詩をもって証と為す。
夕に東方に見ゆる月(東の方に出たばかりの月)なり。



『和漢朗詠集』にも載っている白居易の、
「八月十五日、禁中にて月に対ふ」についてのお話。
私も気に入っていた句だったので、特に目についてのですが
確かに「新月」ってどういう意味?と思った覚えあり。
斉信さんと公任が解釈について論じていたというのが面白いですね(^^)
矢張り「公任と斉信は詩敵為る事」ですね(笑)。
朗詠の名手である斉信さんの方が、矢張り公任より
一枚上手だったようです。
ニックネーム 僻目 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 四納言

2003年10月01日

公任の多芸ぶり(公任徒然既出)

公任は三才を兼ね備えた、と言われます。
逸話でも史実でも、確かに三才兼備ぶりを発揮。
個人的なイメージとしては、

一、和歌
ニ、漢詩文
三、管弦

の順番くらいで得意だったのだと思います。
男と生まれたからには漢詩が一位でいて欲しいですが
矢張り公任は歌学者の一面もありますしね〜。

さて、管弦については双調の上手だったとされています。
私は三国時代の周瑜(字・公瑾)好きが高じて
公任のファンになった人間ですので(苦笑)
公任も周瑜よろしく、
「音に誤りあれば四條殿振りかえる」
ぐらいの達者でいて欲しいと思います(笑)。

さて、この三才以外にも色々と名人だったとの噂あり。

一、書道
ニ、煉香
三、絵描き(未確認情報)


書に関しては、『弘法大師書流系図』によると
道長や行成さんらとともに佐理の門人だったとのこと。
三蹟の1人である従兄弟の佐理の門人なら、上手の謂れになるかもしれません。
現存している『北山抄』草稿の真筆は、私なぞが見ると
ただの殴り書きに見えますが(笑)、専門の方の意見では
矢張り一文字一文字は整っていると見られるようです。

次に香。
『原中最秘抄』の薫物合高名人数に
四條大納言の名がある、ということから想定されていますが
『薫集類抄』の合香家の四條大納言は源定だとされているので
ひょっとしたら『原中最秘抄』の四條大納言も嵯峨源氏の定さんかもしれません。
・・・と思ったら、『薫集類抄』の「梅花」「黒方」に
公任の名が出てくるのであながち間違いでもないかも。
「黒方」はともかく、「梅花」香については『公任集』にある和歌の詞書にも出てきます。
公任に香を求める定頼くんの歌残っていますので、
合香を得意としていたのは充分有り得る話だと申せましょう(笑)。

最後に「絵」ですが・・・
これは今のところ証拠はないのですが、
『公任集』の詞書に「露草のうつし」が頻繁に出てくることと、
絵の情景を詠んだ歌の多いことから想像として考えられている模様。
(露草は、花の碧汁が染まりやすく落ち易い)
花山院が絵の上手だというのは有名ですが、
『公任集』にも花山院の絵の話があるのですね。
『源氏物語』でも光の君が紫ちゃんと絵を描く話が
あるように、結構日常的に絵を描くということがあったのかもしれないです。
なので公任に関しては保留(笑)。

それにしても、和歌だけでなく色々とお出来になるようです。
当時の貴族社会は、何事も卒なくこなせないと大変だったのでしょうね〜。
本当、駄目な現代人の私には想像もつかないですが
到底真似出来ないのは確かです(笑)。
ニックネーム 僻目 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 公任

2003年09月28日

公任の愛娘

いつの世も、男親は娘が可愛いもの。
平安貴族とて例外ではありません(笑)。
かの実資さんも、とある女房(頼忠さんの乳母の娘)との間にもうけた
かぐや姫をそれはそれは溺愛していたご様子。
(政略結婚の駒の意味でも)

さて、公任には娘が二人居たとされています。
二人とも定頼の妹に当ります。
大君の方は、道長の子・教通に嫁いで多くの子をもうけています。
そしてその産後の肥立ちが悪くて亡くなったという哀れさ。
今一人、公任の姉・遵子が養育したとされる姫君
嫁ぎ先等、一切が不明のようです・・・。
名だたる貴公子に嫁いでいないとすれば、何か事情が
あったのでしょうか。

それにしても、教通に娘が嫁ぐと決まった公任は
色々と準備をすべくあちこちを身分不相応の格好
(この場合は着崩して)で走り回ったようで

検非違使別当ともあろうものが、と実資さんに
日記の中でお叱りを受けたりしています(笑)。
この姫君と教通の間に生まれた女子の裳着の儀も、
道長と公任二人でとり行うというゴージャスさ

その分、娘に先立たれた公任の悲しみは深かったと
思われます。
和歌も幾つか残っていますが、そちらはいずれ「公任小話」で。

余談ですが、教通に嫁いだ姫君は能書家としても
有名だったようです・・・。
矢張り父親の教育の賜物でしょうか?(笑)
ニックネーム 僻目 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 公任